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ライト・ヴァースは次世代の俳句規格となりうるか?
2011/06/02 23:49

■「傘[karakasa]」vol.2を読む

ライト・ヴァースは次世代の俳句規格となりうるか?

西川火尖


1、越智史観によるライト・ヴァースの正統性

「傘」vol.2を読んだ。特集はライト・ヴァース。
ライト・ヴァースが今きているらしい。越智友亮によれば、2000年以降、現代仮名遣いによる俳句作品の質と量が向上し、2011年現在、全体的な潮流になってきたというのだ。
私自身はライト・ヴァースによる俳句を、軽く、心地よく、でも少し不安げで、気持ちの揺れに沿いやすいので、悪くないと思っている。
その定義であるが、表現においては『口語的発想を用いたもの』であり、内容においては『季語の重量を限りなく薄めたものを用いたもの。』の2条件が挙げられている。季語の重量を薄めるとは、季語の持つ古典的情緒から隔たっていること、また、対峙もしていないこととされ、つまり季語の持つ象徴性を使うのではなく、サラの言葉として捉えなおすことと理解した。

越智はこの2条件を使い、時代順に有名俳句をライト・ヴァースかそうでないか分類してみせ、定義としての機能を試し、使える定義であることを証明して見せた。
そして、俳句がライト・ヴァース性を獲得してきた経緯を三段階に渡って示し、まるで社会発展的に、その正統性を主張した。

第一段階は、「ライト・ヴァースの偶発期」。

バスの棚の夏帽のよく落ちること 高浜虚子
食ひかけの林檎をハンドバッグに入れ 同

のように、たまたま句の眼目が「落ちること」と林檎の移動先という季語以外のものに向いた句が発表され、結果的に単発のライト・ヴァースが出現した時代。これは裏番組的には虚子の時代であり、この時代のライト・ヴァースは客観写生によるトリビアリズムの誤作動と捉えるべきものかもしれない。
第二段階は、坪内稔典や松本恭子、池田澄子らによる「口語的発想への移行期」。ここにきて『口語的発想に馴染んでくるものも出て来る』と越智は言う。表現上はライト・ヴァースに大きく近づいた時代といえる。越智がライト・ヴァースの資料として挙げ、『本当にライト・ヴァースであるかどうか疑問を持ってしまった』俳句雑誌「未定」第三十号(1986年6月)もちょうどこの時代のものであるのが面白い。
そして2000年以降の「季語の再編期」。『歳時記の一部だけがリアルになってしま』い、他の多くの季語は耐用年数を越えて、古典的情緒(象徴性、連想性)だけの存在と成り果て、現実感を喪失してしまった時代。越智はこの時代にあって俳句が現代の詩であり続けるために、『季語を言葉として捉えなおす』、ライト・ヴァースを主張する。

季語の負ってきた荷を一度取り上げ、他の言葉との重量差をなくし、口語によって成型するライト・ヴァース俳句は、確かに手垢がついておらず平明さを持っており、閉塞を打ち破るものとして期待できそうなものである。
だが、私は、時代の必要という正統性により、俳句は古典的情緒と決別しつつあるという越智の主張どおりに事が進むとは素直に思えない。なぜなら、ライト・ヴァースがそれ自体独立で成立していけるとは思えないからだ。


2、古典的情緒の重力圏

2001年に刊行された俳句αあるふぁ編のインタビュー集「現代俳人の風貌」では、森澄雄や鈴木六林男など高名な俳人が、若手俳人の俳句の内容の希薄さを嘆いている。2001年と言えば「季語の再編期」に当たり、俳壇が『季語を言葉として捉えなおす傾向』に対して危機感を露にしていたことが窺える。また否定の色合いこそ違うが、現在でも希薄さに対する警戒感自体は一般的なものとして存在する。
藤田哲史は神野紗希のライト・ヴァース性に対して、「傘」vol.2で『「私」が極限にまで薄まってしまって、共感性にだけ特化した言葉になってしまうんじゃないか』と不安視し、一方の神野紗希も、週間俳句第211号でライト・ヴァースを『美が脱ぎ捨てた服』と表現し、『「脱ぎ捨てた服」が「美しいという誤解」を生じさせるメカニズムのほうに、こうした句の本領が隠されている。誤解が生じなければ、それはただの薄っぺらな言葉に終わる。』と述べている。
しかし、そんな不安をよそに、ライト・ヴァース俳句は

ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子
規律礼着席青葉風過ぎた  神野紗希

など着実に成果を残している。表現も軽い、内容も薄い、そんな俳句の魅力とは一体何か?ライト・ヴァースが次世代の俳句規格となるためには、そのサムシングの部分に関する考察が避けられないはずである。
「迷ったときは定義に立ち返れ」ということで、ライト・ヴァースのキーは「季語の重量」である。もともと「季語の重量」という言葉は非常に示唆に富んでおり、本稿を書くきっかけとなったものである。
通常、有季定型の俳句は、象徴性や連想性などの負荷のかかった言葉である「季語」とその他の言葉との距離感や関係性でもって、「サムシング」を得るという構造をしている。要は季語と措辞の言葉の位置や質感、重量など、あらゆる差異によってエネルギーが生じると考えられる。
「季語の重量」を薄めたライト・ヴァース俳句には、それが特長でもあるのだが、内容それ自体に詩的感興を呼び起こすほどのエネルギーが存在していない。
そもそも季語を他の言葉と平等に扱うのであれば、初めから季語を使う必要などないのである。にもかかわらず、なぜ「季語」の重量を薄めて使うのか。ライト・ヴァース俳句といえども、その大勢は有季定型である。なぜ、より自由度の高い無季が主流となっていないのか。
その問いに対する一つの仮説として、ライト・ヴァース俳句は古典的情緒を拒むものであることは確かだが、同時に、古典的情緒による俳句の世界を必要としているという考えを私は提示する。

つまり、通常の有季俳句が内部構造によるエネルギーでサムシングを生むのに対し、ライト・ヴァース俳句は内部の構造によってではなく、外部−古典的情緒の世界−との差異によって、エネルギーが発生し、相対的に個人的な世界を生むのである。
このことからは、俳人がライト・ヴァース俳句に魅力を覚えるときのメカニズムも次のように説明することができる。俳人は、句中の季語をいったん古典的情緒の世界に照らし合わせて理解するが、すぐに口語的発想と重量バランスの効果により、それを否定される。その逆の意味の季語の飛躍が、サムシングとなるのである。古典的情緒の重力を逆手にとった俳句、それがライト・ヴァース俳句の正体ではないだろうか。

3、ライト・ヴァースは次世代の俳句規格となりうるか?

このように、ライト・ヴァース俳句を古典的情緒との差異関係で理解すると、ライト・ヴァースが現状の俳句にとって代わる可能性は低いと言わざるを得ない。既存の俳人がライト・ヴァース俳句に魅力を覚えるためには、古典的情緒の世界の存在が必要なのだ。ライト・ヴァース俳句には、一見、俳人以外の人にでも魅力を感じさせるような句もあり、それが特質と言われることもあるが、それは口語リズムのポップさが由来で、特段ライト・ヴァース俳句固有のものではないだろう。
とは言え、越智の季語に対する手詰まり感という認識は私も共有するところであるし、俳句がこのまま古い古典的情緒に囚われているのも面白くない話である。
ただ、私の理解では古典そのものは日々更新されていると感じていて、おそらく近いうちにティッピングポイントを迎えるのではないかと思っている。
そして、それは、とりもなおさず越智たち若い力によってであると確信している。

カテゴリ:批評

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