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週刊俳句10句競作をよむ      中嶋憲武


週刊俳句・10句競作(第3回)


◯散剤のからだに広がれば深海   柏柳明子

 粉薬を服用するときCFに強く影響されているのか、私は真っ暗な闇を白い粉末が雪のように下降して行くイメージを持つ。掲句は一読そのようなイメージを想起させる。
 天を仰いで口を開け、サラサラと粉薬が薬包紙を伝う音を聞き、つめたい水と共に薬が喉から胃へ通って行くのを自覚するとき、拡散する感じと共に安らかな気分が広まって行く。そうした気分は深海、と言っても真っ暗な光を通さないような深海ではなく薄暮くらいに青さの残る深海、のイメージが似つかわしい。つかの間、深海に身を委ね再び日常へと戻って行く。


◯厳寒の絶対に動かない石   鈴木健司

 この石は山の石である。「厳」の字に意符山を載せれば「巌」となるから。という読みではつまらない。
 「絶対に動かない」と言っているところに、強い意思を感じる。「絶対に動かそう」と思っているのではないかとも読めてしまう。「厳寒」「絶対」という強い響きを持つ言葉がそうさせるのか。例えば嵌め殺しの窓の外の縁のコンクリートに小石が載っていて、内部で読書しているか、お茶を飲んでいる景を想像できる。読書の視線はいつしか小石に集中していて、そこに石があるという石の存在を訝しみつつ、石の存在感を充分に堪能している寒い冬の午後である。


◯振付をぬるぬるとして春の山   藤 幹子

 学生の頃、映画研究部に所属していて先輩のミュージカル映画にエキストラで出たことがある。総勢百人ほどのダンスシーンで、プロの振付師が来てフレーズごとに振付をしてくれたのだが、すこし進むと数フレーズ前の振付を忘れ、あれ?あれ?と思っているうちに各パートの振付がバラバラになって、最初からやり直しということになり、そんなことが数回繰り返されて、やっとラストまでつながったときは心底嬉しかったものだ。
 こういう今まで忘れていたようなことを思い出させてくれるのも、中七の「ぬるぬるとして」が効いているからかもしれない。「春の山」もそこそこいいようだが、実際のところは分からない。とにかく「ぬるぬるとして」がこの場合断然よい。


◯黒兎抱かれシャンソンの中は雨   西川火尖

 映画やテレビで、今では滅多に見られなくなった場面転換の手法のひとつにアイリス・イン、アイリス・アウトという手法がある。レンズの前に絞りを付けておいて、それを開いたり閉じたりするのだが、真っ暗な画面から真ん中の一点を中心として丸く明るくなって行くのがアイリス・イン、その逆に丸く暗くなって行くのがアイリス・アウトである。
 この句、まるでアイリス・インのような効果がある。黒兎を中心として、兎の鼻がヒクヒクしているところのアップショットから始めてもいい、その抱く手、腕、抱いている人物のバスト・ショットへと広がって行き、背景が次第に見えるようになるとどこからか流れているシャンソン。しかもその内容は雨をテーマとしたもの。シェルブールの雨傘だろうか。同心円上に景が広がるにつれ、明らかとなって行く世界。俳句にはこうした表現も可能なのだ。




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炎環PLUS20 vol.1  ~ 岡田由季編

炎環ファッションスナップ

ここ数年の炎環誌上およびメンバーの句集から、ファッションの傾向を探ってみました。

ブラウスのきれいに見ゆる星祭      宮本 佳世乃
霧霽れて来し豹柄のハイヒール      中嶋 憲武
似たやうな形を探す冬帽子        新井 いづみ
ペコちゃんのマフラー短か国分寺     殖栗 歩
風邪声の花嫁衣裳合はせをり      柏柳 明子
着ぶくれの傘一斉にひらきをり      上山根 まどか
放り出す服から枯草の匂い        近 恵
ブーツ脱ぎすて陽あたりの良い娘     田島 健一
豚は世界の果てまで泳ぎきり背広     二輪 通
マフラーの端の見えない二人乗り     西川 火尖
マフラーの中のつぶやき三鬼の句     山岸 由佳
人日やぎらぎら股へ這ふタイツ      藤 幹子
ネクタイの昭和の幅よ鳥雲に       齋藤 朝比古
スカートの無限のかたち大花野      山高 真木子
三月のミラノの靴の尖りたる       吉田 悦花
金魚屋の主金魚のやうな装        岸 ゆうこ
日傘派と帽子派駅前交差点        倉持 梨恵
アメリカの古着の並び南風        岡田 由季
踝のすこし出てゐる花衣         新井 みゆき
春ショール映画の闇に来てほどく     石井 浩美

★コメント
従来の「ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜  桂信子」「ふだん着でふだんの心桃の花  細見綾子」といった、装いに女性的な心情を託す俳句は姿を消し、小物をさりげなく使う例が多いようです。アイテムとしては帽子が夏も冬も人気となっています。春ショール、マフラーといった巻物系も大流行です。実ファッションで長いトレンドとなっているストールが意外に詠まれていないのは、歳時記に掲載されていないからでしょうか。冬のブーツは既にマストとなっていますが、その他にもハイヒールなど足元のお洒落に注目が集まっているようです。トップスの注目のアイテムとしてはブラウスがあります。質感の柔らかさを生かしたあしらいが目だっていました。全体的な着こなしとしては「着ぶくれ」が外し感を演出するコーディネートして重宝されているようです。

★スナップ
似たやうな形を探す冬帽子 新井 いづみ
帽子は印象を大きく左右するアイテムですから、自分流の定番を持つというのもおすすめです。

マフラーの端の見えない二人乗り 西川 火尖
マフラーは巻き方も重要です。首回りにボリュームを出す巻き方が主流ですが、端の見せ方で印象を変えることも可能です。

人日やぎらぎら股へ這ふタイツ 藤 幹子
年末年始はイベントの多い時期です。タイツをラメ入りのものに変えるだけで華やかさを出すことができます。

ネクタイの昭和の幅よ鳥雲に 齋藤 朝比古
80年代風の幅広のネクタイは個性の強いアイテムです。現在のファッションシーンに取り入れるのは上級者のコーディネートと言えるでしょう。

日傘派と帽子派駅前交差点 倉持 梨恵
UV対策も実用一点張りではなく、スタイルを完成させるアイテムとして積極的に取り入れている方が多いようです。

踝のすこし出てゐる花衣 新井 みゆき
足元に抜け感の出せるアンクル丈がここ数年注目されています。この春も各ブランドから九分丈パンツがでていますね。

俳句における読者論の試み   大原貴彦

■評論

俳句における読者論の試み
大原貴彦


 ふだん考えていることを、この辺でいったんまとめておこうかと、ふと思いつきました。私は、俳句にとっての読者というものが、ずっと気になって います。それはたぶん、私が俳句を作り始めたころからずっとです。この文章では、その、俳句にとっての読者について考えますが、読者という言葉は意味が広 く、私自身はこの言葉に特別な思いをこめていますから、話を進めるには言葉を定義しなくてはいけません。しかし、それはあとでやります。のっけから、抽象 的、観念的な話はいささか無粋でしょう。定義はあとでやりますが、定義する前でも、〈読者〉と括弧付きのものが現れたら、それは私の特別な思いのこもった 言葉だとご留意ください。

 さて、それではまず、一句を鑑賞することから始めましょう。その一句は「古池や蛙飛こむ水のおと」。またまた定番の句で、私も芸がないと思われ るかもしれませんが、この句、あまりに知られすぎていて、意外と鑑賞されていません。内容が単純だということもありましょう。そこで、少し大げさに鑑賞し てみます。

「古い池がある。縁どる石は苔むしている。小枝が一本浮いたまま、じっと動かずにいる。池が湛えた水は、池とともに四時を幾度となく巡ってきただ ろう。時間の止まったような、悠久ともいえるような感覚の中で、私はたったいま、カエルが飛び込む水の音を聞いた。そのポチャという音は、小さいながらよ く響いた。そのときはカエルが水に飛び込んだ音だと思ったけれども、あるいはそうではないかもしれない。そういえばあたりでカエルが鳴いているので、だか らその瞬間、反射的にそう思いこんだのだ。いずれにしても、そのポチャという音は、いまを刻印してただちに消え去った。音は一瞬だったが、私の動揺は続い ている。眼前には、あいかわらず古い池が、森閑と水を湛えている」

 いかがでしょうか。少々芝居がかっているようですが、それが悪いとはいえないでしょう。そもそも鑑賞は〈読者〉に与えられた権利です。自由で す。とはいえ、実のところ、全く自由であるともいえません。この鑑賞においても、私は自分自身にしばりをかけました。それは次の三点です。

一、鑑賞の対象は俳句(発句)である。したがって、俳句として鑑賞せねばならぬ。
二、「や」には、特殊な意味と役割がある。それを考慮せねばならぬ。
三、作者(ここでは芭蕉)の意図などを忖度する必要はない。というより、それに振り回されてはならぬ。作品に書かれている文字のみを根拠とせよ。

 以上三点。実のところ、これらのしばりがあって初めて、先の鑑賞は成り立ちました。自由にやれといわれても不可能なのは、俳句を自由に作れといわれても作れないのと同じです。そんなわけで、鑑賞の内容はさておき、まずしばりの方から話を進めます。

 しばりの第一の点については、「なにをいまさら」ですが、これは一番大事な点です。日本人ならだれでも知っている「古池や」は、しかし、ことわ ざでも慣用句でもありません。これが俳句であることを認めなければ、扉は開かれないのです。「俳句とはなにか」を、その歴史をも踏まえて、きちんと理解で きていることが前提です。この辺の感覚は、句作りの経験を積んだ人ならば、おのずから身に付いているものですが、これは俳句の〈読者〉にも求められる要件 なのです。

 第二の点は、第一の点のテクニカルな側面でもあります。しかし、「古池や」の句では、「や」の問題を絶対に避けて通ることができません。この 「や」をどのように見るかは、鑑賞の内容を大きく左右します。長谷川櫂氏は、この「や」の解釈から「蛙は古池に飛びこめるはずがない」とまで言い切りまし た。この問題は、後ほど触れます。

 第三の点は、もともと、私が読者について考えるようになった契機とも関わります。作品に書かれている文字のみを根拠とせよとはどういうことか。ここから本題に入るとしましょう。

 〈読者〉が俳句を解釈し鑑賞するとき、作者の意図や動機など、ひいては作者の人格や職業や思想など、作者に関わる情報は必要とするものなのでしょ うか。私は句会のたびに、この問題を感じます。いうまでもなく、句会で選をするときは作者が分かりません。句は、親を失った孤児のように、文字だけの姿で 立たされています。選者はそれらを独りで黙読し、解釈し、鑑賞し、そして評価します。互選ですから、このときばかりは、参加している作者たちがみな〈読 者〉となります。そして少なくとも、原則として、解釈・鑑賞は作者から切り離されているはずです。私は、この局面で〈読者〉に起こっていることがきわめて 重要だと考えます。一方、句会の方は、この先、このときの〈読者〉を抹殺する方向へと進みます。

 選句が披講され、それぞれの得点の結果が出ると、参加者たちは早々に〈読者〉であることを止めて、作者たる、あるいは選者たる立場に自分自身を 切り替えます。作者名が伏せられたまま選評を述べるときも、よき選者として、同席しているはずのその句の作者に配慮して言葉を選びます。その句を主宰が 採っているかどうかで、態度を変更することもあります。やがて作者の名が明かされると、〈読者〉としての解釈・鑑賞は、作者の意図や動機や作句技術に取っ て代わられ、句に対する、あるいは作者に対する評価だけを残して句会は終了します。いまここで私は句会を批判しているのではありません。句会の目的は個々 の俳句の上達なのですから、これでいいのです。もしある人が、句会で自分の採った句を指して、「今日私はこの一句に逢うためにここへ来た」と言ったとした ら、そしてこれが句会での〈読者〉体験をしみじみ語っているのだとしたら、これはたいへん美しい言葉だといえましょう。

 そこに俳句があれば、必ずそれを作った人がいます。作者の存在は誰にも疑いようがありません。無数の作者がいて無数の作品が生みだされる、それ が俳句の世界の現実です。しかしそれだけで、作者も作品も満足しているのでしょうか。そんなはずはありません。そこには何かが必要です。そしてそれはいう までもなく、「師」の存在です。俳句の維持と発展を保障するものは、「師」の存在と、師が下す「評価」、それのみと言っていいでしょう。たとえば小説にあ るような市場原理は、俳句にはほとんど求められません。しかし、ほんとうに「師」と「評価」だけのシステムであったら、私はとっくに俳句を捨てていたで しょう。俳句には、〈読者〉という目には見えない装置が機能しており、それが日本の伝統文化に連なっていると信じればこそ、私は俳句にやり甲斐を感じま す。

 さて、そろそろ、〈読者〉の定義とまいりましょう。〈読者〉は俳句を読んでいるときにだけ現れます。〈読者〉は作者のことなど考えません。〈読 者〉にとって有るものは、作品のみです。文字で書かれた作品です。それを黙読するのが〈読者〉です。ここで〈読者〉に与えられているのは、作品に示された 言葉と、俳句という形式、それだけです。非常に限定された情報です。それでも〈読者〉は、自己の想像力を存分に働かせて、与えられた世界に身を浸します。 このとき、〈読者〉は作者を理解したのかといえば、そうではありません。そもそも俳句のような片言隻句で、人間が理解できるものでしょうか。作者という人 間の「感性」とか「詩心」とか「才能」とか「手腕」などといった「評価」については、「師」に任せておけばいいのです。

 人が純粋に俳句作品とのみ向き合ったとき、その人の心に動揺をもたらす仕組み、私はそれを抽象して〈読者〉と呼んでいます。ですから〈読者〉と は、機能であって実体を伴いません。一方、作者は俳句を作るとき、読んでもらいたい読者を念頭に置くものです。一般的にそれは、「師」という選者でしょ う。「師」は、まさに、実体としての読者を代表する存在です。つまり、〈読者〉と「師」とは、対極的関係にあるといえます。

 ここで種を明かすと、私が〈読者〉という概念を使うのは、文学研究におけるテクスト論の考え方を知ったからです。私は研究者ではないので、そこ のところは石原千秋著『読者はどこにいるのか』(河出書房新社、二〇〇九・一〇)から学びました。文学(主に小説)の研究においては、一九八〇年代に作家 論パラダイムからの転換が潮流となったといいます。構造主義だのニューアカデミズムだのポスト構造主義だのカルチュラル・スタディーズだのとあれこれの主 義主張はあったようですが、その基本的な立場はいずれもテクスト論で、「作者から離れる」ことでした。私は文学研究として俳句を読むわけではありません が、しかし、テクスト論という立場は、俳句を考える上でも大いに利用できると直観しました。文学研究では「作者から離れる」ことによって「語り手」という 抽象的な主体を作品の中に発見し、語りを聞く抽象的な主体として「読者」という概念を導入するに至りました。またテクスト論を準備した社会条件として、書 物の大量生産、リテラシーの向上、知性感性の平準化、共同体意識と個人意識の拡充、そして黙読が出来る能力と空間などが挙げられますが、これらの社会条件は、座における発句を起源に持つ俳句の現在を考える上でも、十分に考慮されるべきものではないでしょうか。

 話が抽象的になってまいりました。この辺で、「古池や」の鑑賞に話を戻しましょう。私は、これを鑑賞する際、ひとまず芭蕉から離れることにしま した。したがって、鑑賞文中に「私」が登場しますが、この人は断じて芭蕉ではありません。「私」を芭蕉と定めて、どういう史実に基づいてこのような解釈を 行っているのか、などと詰問されても困ります。とはいうものの、それならば、ここに登場した「私」はいったいだれなのか、それを説明する責任はありましょ う。さしあたり、「それは〈詠み手〉である」と答えておきます。そう、たしかに、作品の中に〈詠み手〉がいるのです。いうなれば、それは小説の中の「語り 手」と同じような役割を果たしています。これについては、またあとで述べます。

 今はまず、作者芭蕉にべったりと寄り添った解釈の例を紹介しましょう。長谷川櫂著『古池に蛙は飛びこんだか』(花神社、二〇〇五・六)という本 があります。長谷川氏の結論は、「古池に蛙は飛びこんでいない」です。その論拠は二つ。一つは切字の「や」。氏は『去来抄』を引き合いに出し、《芭蕉は明 確に「切字を入るは句を切るため也」と語っている》とし、ここで句は切れているのだから、古池に蛙飛びこむなどと訳してはならない、といいます。もう一つ は、この句の成立過程に着目。支考という芭蕉の門弟が書き残した『葛の松原』という文章に、この句は先に「蛙飛こむ水のおと」ができて、上五に何を載せる かを思案、「山吹や」という其角の提案もあったが、芭蕉はそれを退け「古池や」にした、と記載されている。《「蛙飛こむ水のおと」は庵の外から聞こえてく る現実の音であるが、「古池」は芭蕉の心に浮かんだどこにも存在しない古池である。どこにもない心の中の古池に現の蛙が飛びこむわけにはいかないだろう》 というわけです。したがってこの句は、現実の世界と心の世界の取り合わせの句だ、ということになります。なるほど、作者の位置に視点を据えれば、理屈は通っているようです。

 長谷川氏が論拠としている点は、氏が初めて持ち出したものではなく、昔からなにかと取り沙汰されていました。たとえば山本健吉の文章で、一九五 二年四月の『馬酔木』に初出の「『や』についての考察」においても、まさにこの句の切字の問題と成立過程の問題が述べられています(『山本健吉俳句読本・ 第一巻』角川書店、一九九三・五)。しかし、結論は全然別で、山本健吉の場合、この句は取り合わせではなく、「古池」と「蛙飛こむ水のおと」とは《一つの 主題の反復》であり、下は上の《具象化》だということになります。「や」の役割については、《作者によって切り取られた客観世界の実在感を、はっきりと指 し示す、詩人的認識の在り場所を冒頭確かに教える》ものだとし、「切れ」という見方を避けています。しかし《詩人的認識の在り場所》は結局、長谷川氏がい うところの心の世界なのであって、山本健吉の持って回った言い方に比べれば、長谷川氏の方がきっぱりと潔いといえましょう。

 長谷川氏はその後の著作においても、この話題をたびたび持ち出しています。それにしても「古池に蛙は飛びこんでいない」という説は、はたして一 般に受け入れられるでしょうか。思うに、そこが氏の狙いでしょう。俳句の指導者たる氏が論じたいのは、俳句の鑑賞ではなく、俳句作法、作句の心得なので す。氏は俳句愛好者たち(一般の作者たち)のレベルの向上を目標に、切れについて、また、句の構成法について指南することを使命と感じ、生徒たちの関心を 惹きつけるためのキャッチコピーとして「実は、古池に蛙は飛びこんでいないのだ!」とセンセーショナルに叫んでみたのだと思います。

 私の鑑賞の場合はどうかというと、切字については大いに意識しましたが、成立過程については一切顧みませんでした。「古池や」と言われれば、古 池を一所懸命に想像します。このとき中七下五がそれに荷担することを思えば、山本健吉の反復説には親近感があります。一方、長谷川氏の説はといえば、これ は私にとって全く異質のものです。古池は芭蕉の心の中にあるのではなく、〈読者〉の眼前にあります。〈読者〉に芭蕉の心の中なぞ見えはしません。ただ、 「古池に蛙が飛びこんだ」とストレートにつながってしまうことには、長谷川氏ならずとも、やはり抵抗がありました。そこで、「水のおと」に意識を集中し て、「蛙飛こむ」を事象の叙述ではなく曖昧な断定と解釈してみました。理屈ではなく感覚において「古池に蛙は飛びこんでいない」という可能性も残してみた わけです。

 次に「や」について考えてみます。『古池に蛙は飛びこんだか』において、長谷川氏は高浜虚子の文章を引用しています。それは、虚子が「古池や」 の「や」について述べたものですが、これは名文だと思うので長さを厭わず引用します(引用といっても、長谷川氏の本からの孫引きです)。
「その古池の景色も大方こんな景色であらうと云ふ、各々の頭に想像が付くだけの余地を与へるといふ働きを持つてゐますし、それから又、其古池の感 じをも、めいめいの頭で呼び起こすだけの余地を存してゐます。つまり古池! といふやうな、此の古池なる哉、とでも云ふか、其古池といふものを呼び出して 来て人の心に印象付けると云ったやうな、さういふ大変な力を持つて、此の「や」は独りで飛躍してゐるのであります。口でいへば古池がありますぞよ、古池で すよ、其古池に蛙がとび込みました、水の音がしました、と斯ういふ意味、即ちこの『古池がありますよ、古池ですよ、其古池に』といふ意味、もつと複雑な意 味が此『や』の一字に性質づけられて来たものと云ふ可きでありまして、是は俳句が文字を省略する必要から自然々々に起つて来た処のものであると考へるので あります。」

 この一節から長谷川氏は、虚子は《切字の働きを省略と考えて》いると断じます。それに反論することが、氏がこの一節を引用した目的でした。つま り、切字は切れ、切れとは《文字どおり言葉を切る》こと、だから「省略」などではなく、切れを「省略」とみた虚子は《ここで芭蕉と擦れ違った》と長谷川氏 は喝破します。しかし私には、この虚子の説はかなり魅力的で、「省略」か「切れ」かなどという議論より、《呼び出して来て人の心に印象付ける》ということ の方が、よほど重要であるように思われます。そういえば山本健吉も、「や」は《詩人的認識の在り場所を冒頭確かに教える》ものだと言っていました。つま り、上五の事象を「呼び出す」「印象付ける」「確かに教える」ということこそが「や」の役割だというわけです。私の鑑賞も、この考えと一致しています。

 ところで「古池や」の句は、書かれている文字を見れば、「池」が有って「おと」が有る、ただ有るものを、その名をもって並べただけで成り立って います。ところが鑑賞文では「私は/水の音を聞いた」と書きました。句には人の姿など描かれていないのに、どこから「私」が現れて、水の音を「聞いた」の か。私はここで、見る人・聞く人がいなければそこに物は存在しない、などという哲学的な話をしているのではありません。私が鑑賞文で「私」という人を登場 させたのは、この句にははっきりと人の姿が描かれているからなのです。それは、この句の中で「や」と声を発しているその人です。彼はただ古池を呼び出し印 象付けているだけではありません、「や」によって自身の存在をも顕示しているのです。

 小説に「語り手」がいるように、俳句には必ず〈詠み手〉が隠れています。作品において〈読者〉は〈詠み手〉と出会います。「かろき子は月にあづ けむ肩車」とあれば、「かろき」と感じている「詠み手」、「あづけむ」と思っている〈詠み手〉がそこにいるわけです。「や」「かな」などの切字は、〈詠み 手〉の自己顕示の一つの方法です。逆に、「や」「かな」をできるだけ使わないという作者がいたら、それは〈詠み手〉を〈読者〉から見えないように隠そうと 企んでいるに違いありません。しかしそうであっても、俳句の〈読者〉は必ず作品に〈詠み手〉を捉えます。繰り返しますが、〈詠み手〉とは作者本人ではあり ません。五七五の韻律にのって作品を詠み上げる声、その声の主が〈詠み手〉です。それはいわば、作品を俳句たらしめている姿そのものです。そしてそれを受 けとめた〈読者〉自身だといってもいいでしょう。

 さて、そろそろ締めたいと思います。長々と語ってきたことを、結論ではありませんが、いちおう一言でまとめておきましょう。

「俳句作品はいつでも、〈読者〉と〈詠み手〉がそこで邂逅することを待っている」

 最後に思い出話を一つ。二〇一〇年六月、横浜で「環の会」鍛錬句会がありました。このとき、寒太主宰が「天」に選んだ句は、中嶋憲武さんの「覚めぎはに夜濯の父立つてをり」でした。この句を取ったのは、実に主宰お一人のみでした。ほかにはただの一人も、この句に着目しませんでした。そんなときは 必ず議論が沸騰します。この句は変ではないか、「覚めぎは」とは目が覚める直前のことだろう、まだ覚めてもいないのに「父」の「立つて」いる姿を見ること など出来るはずがない、という抗議が噴出しました。多くの人は、作者が「覚めぎは」の状態にあると考えたわけです。しかし、そうとばかりはいえないのでは ないかと、私は思いました。「覚めぎは」の人と「夜濯の父」、この二人がいて、その両方を視野に収めている〈詠み手〉がいる。そう考えれば何の問題もあり ません。私はそのような意味のことを発言しましたが、そこに第三の人がいるなんてますます変だと思われたのか、私の発言はまったく相手にされませんでした。

掲載等

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


・宮本佳世乃 
角川俳句2012年1月号 新鋭作家競詠に「弓を見る」7句、掲載されました。

・田島健一 
角川俳句2012年2月号 新鋭俳人20句競詠に「杖は終日」が掲載されました。

ご感想などいただけますと幸いです。

彼方からの手紙第2号配信 (宮本佳世乃)

週刊俳句240号にも紹介されましたが、
銀化の山田露結さんとネットプリントを始めました。
セブンイレブンのコピー機から、俳句が出てきます。

「彼方からの手紙」

山田露結×宮本佳世乃+(今号のゲスト)関悦史さん。
俳句8句と短文が載っています。


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○ネットプリントの受け取り方

1.セブンイレブンへ行く。

2.コピー機の「ネットプリント」を選択して予約番号を入力する(プリント料金 60円をお忘れなく)。

3.手順に従ってプリントを開始する。


■予約番号 01754161
■プリント料金 60円
■配信期間 12月20日(火)~27日(火)23時59分

どうぞよろしくおねがいします。
プロフィール

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俳句結社「炎環」の公式ブログです。

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